1986年(19歳) | 武術修業の探求のため人体の構造や機能に強い興味を持ち治療の世界に入る |
1987年(20歳) | 明治鍼灸専門学校に入学 |
1988年(21歳) | 吉田勧持先生の最初の著書「構造医学の原理」に出版と同時に 出会い、構造医学/吉田勧持先生に出会う 構造医学協会主宰の構造医学セミナーに参加するため隔月で大阪より熊本に通う |
1989年 | 構造医学研究所主催の隔月の定例会の講座にも参加するため毎月熊本に通う |
1990年(23歳) | 鍼灸資格試験終了後、卒業式を待たずに熊本市にある日本構造医学研究所に就職 |
1991年(24歳) | 真伝古儀中国武術の達人に出会い入門 、本格的に武術・気功の修行を始める |
1992年(25歳) | 老師の正式な弟子(拝師門徒/掌門人)となる 教練・支会長・副長などを勤める |
1995年 | 吉田勧持師の命により阪神大震災のボランティア活動のため地元(大阪)に戻る |
1996年 | 吉田勧持師の依頼により実家で上本町オステオパスオフィスを開業 |
1996年 | 中国の伝説的な気功の達人張志祥先生に元極学(気功)の混沌初開法の貫頂を国内で、総本山の蓮花山にて混沌初開法及び鴻蒙済判法の貫頂を受け、混沌初開法・鴻蒙済判法の功法を学び。混沌初開法伝授員になる |
1998年(31歳) | 気功・武術修行の成果により「空」の体験をする |
2001年(34歳) | 神田身療室として移転開業 |
2006年 | ダライ・ラマ法王に金剛界マンダラの灌頂を受ける |
2011年 | ダライ・ラマ法王に再度金剛界マンダラの灌頂を受ける |
2013年 | 苫米地英人博士の講演会に参加、博士に出会う。 7月第1期苫米地英人アカデミーが開講され参加 12月第1期苫米地英人アカデミー修了 |
2014年 | ダライ・ラマ法王より胎蔵界マンダラの灌頂を受ける ダライ・ラマ法王よりカーラチャクラの灌頂を受ける 7月第2期苫米地英人アカデミー修了 12月第3期苫米地英人アカデミー修了 |
2015年 | 4月苫米地式コーチング認定コーチ養成講座修了し、苫米地式認定コーチとなる 6月苫米地博士によるハワイ・マナ ヒーリングを受講 7月第4期苫米地英人アカデミー修了 |
2016年 | 1月2015年度下期(第5期) 苫米地英人アカデミー修了 |
5月ダライ・ラマ法王より文殊菩薩の許可灌頂を受ける | |
2017年 | 7月2016年度上期 (第6期)苫米地英人アカデミー修了(第1〜6期を連続受講修了) 11月ダライ・ラマ法王よりチッタマニターラー尊灌頂を受ける 4月 10年来の夢が叶い、秘密集会(グヒヤサマージャ)の聖者流とジュニャーナパーダ流の2流儀の大灌頂をチャト・リンポチェ猊下より受ける |
神田正彦は世界におけるコーチングの第一人者である苫米地英人博士をはじめ、各分野の最高穂の師に師事した後、理論と実技を独自に統合し、スポーツ選手や武術家、治療家・芸術家など多分野の専門家達のフィジカル・メンタル両面の向上に貢献し、飛躍的に上達させた数々の実績を残しています。
《幼少期〜高校時代 天然のノット・ノーマル》
幼少期から身体能力が異常に高く、運動能力では学年1位が当たり前であった。
また、武術、格闘技にも強い興味があり、独学で学んでいました。
高校時代には、様々な部活からの勧誘があったが、武術・格闘技に興味があったため、どこにも入部しませんでした。どの部活の主将よりも運動能力が遥かに高かったので、毎日放課後に何時間も練習して私に勝てない彼らを見て、部に入る意味が全く解りませんでした。
この当時から彼らがやっているトレーニングは間違っていると確信していました。
中学に入る頃には自分の求めていた武術が中国武術だと確信を得ましたが、自分が師と認められる中国武術家に出会えなかったため、どこにも入門出来ずにいました。
不思議なことに見学に行き観るだけで学ぶに値しないことが解りました。
高校生の時に古武術も教えるの空手道場に入門するも、自己流で学んでいた格闘技の技術能力と元々持っていた才能や身体能力から師範代より既に強く、バカらしいのですぐにやめてしまいました。
学生時代は学校の先生がバカに思え、尊敬できる先生に出会えず、勉強嫌いに。
宿題とは学校に何とかしてもらいたいやつがするものと考え、自分は学校に何とかしてもらうつもりが全くなかった。
中学校時代から宿題は一切やらない、音楽の笛は持っていかない、美術や技術の作品は出さない、want toしかやらない徹底振り。
副教科オール1というノットノーマルさを発揮。
高校時代も宿題は一切やらず、制服を3年間着ないなどノットノーマルを発揮し続ける。
勉強は通学中と休み時間しかやらないと決め、勉強の効率化を探求。
先生の考えそうな問題を予測し、何点取るかを決め、それに応じて勉強時間を決める。
少し集中すればこの先生ならこんな問題だろうと予測できた。
今考えれば先生の抽象度で考えることが学生の頃にすでにできていた。
90点ならこれくらいの時間、80点ならごれぐらいでいいとか当時からゴールから逆算していた。
当時の兄曰く「おまえほど勉強しないやつを俺は見たことがない。」と呆れられていた。
《吉田勧持博士との出会い》
88年に元NASAの研究員だった吉田勧持博士とその吉田博士が創始した構造医学に出会い、人生で初めて心から尊敬できる師に出会う。
吉田博士は元々核物理が専門で、大学3年の時に書いた核融合に関する論文が驚くべき内容だったようで、文部省を通じてNASAに呼ばれ研究していた程の天才。
フィールズ賞を受賞した森理論を同時期に森教授とは別のアプローチで解くなど驚異的な頭脳の持ち主。
※吉田勧持(よしだ かんじ) 1954年熊本生まれ 物理学者としてNASA(米国航空宇宙局)の高エネルギー開発に携わる 理学博士 医学博士,PhD."Biomedical Science Doctor″ PhD." Doctor of Field Science″(生物物理学)
構造医学研究所にて吉田勧持博士と研究所所員
吉田博士は苫米地博士と少し似ているところがあります。
それはただの数学・物理学者ではなく、さまざまな武術・格闘技に精通し武術の名人・達人クラスであるというところです。
陳家太極拳小架式師家嗣・一源流空手総代・極真空手最高幹部など凄まじい限りですが、剣道や少林寺拳法などでも全国一になる腕前だったとか、その他合気道・居合い・捕縛術などの段位を足すと30を超えるほどだと聞きます。
極真の現役時代も強さだけではなく、会場の瓦を全て割り当時の大山総裁の記録を抜くなど伝説的な存在だったらしく、そのうえ極真の世界チャンピオンを二人育てたとも聞いています。
これらの中で私が特に強い縁を感じるのが陳家太極拳小架式師家嗣としての吉田博士です。
少し説明すると吉田博士の師である陳明煕老師は陳家太極拳の小架式の開祖である陳青萍(清萍)の四世師(四代目)にあたり、吉田博士は陳明煕老師から最高位の白龍位をいただいた実力者で、陳老師の四人の後継者の一人です。
陳青萍は太極拳史上でも傑出した達人で小架式(趙堡架式太極拳)の開祖としてとても高名であり、私があこがれる達人の一人でした。
また陳明煕老師から学んだ太極思想や東洋の考え方はNASAでの高エネルギーの研究にも大いに役立ったそうです。
その五世師である吉田勧持博士との出会いに私はとても強い縁を感じています。
苫米地博士のように多忙な吉田博士ですが、引退して落ち着いたら陳家太極拳小架式を教えていただこうと思っていますので、それまでに私が私が専攻して学んでいる陳家太極拳老架式をできるだけ上達して達人化しておきたいと考えています。
吉田博士の最初の著書「構造医学の原理」を読み、解らないところを質問するため出版社に問い合わせ構造医学研究所の連絡先を教えていただき、問い合わせてたみたところ、ご本人が直接お答えしてくれました。
そして「熊本で勉強会があるので、よければ来ればいいよ。」誘っていただき参加することに。
当時鍼灸の学生でしたが、特例で参加させていただくことになり、大阪から熊本へセミナー通いをするようになりました。
吉田博士にお会いした第一印象は「なんて凄い身体なんだ!」「陳家太極拳小架式師家嗣は本当だ!」「この人の能力の根幹は太極拳をはじめとした武術的身体だ!」と思いました。
「自分もしっかり身体作りしないと全く追いつかないぞ!」と思い武術的な身体作りを強く決意しました。
この時の直感が私の人生を決定的に方向付け、今の自分がいると思います。
その後90年に吉田博士の主宰する熊本にある構造医学研究所に入職、内弟子として構造医学を更に深く本格的に学び始めることに。
この吉田博士に構造医学の考え方やバイオメカニクス、人の生理、重力を基準とした診断や施術、身体作りなど様々なことを学ぶ。その元となる演繹的な考え方などものの考え方と、その実践である人の観察や人としてのあり方など多岐に渡りました。
また「ものごとを本質で捉えろ!」と学び、何が本質なのかについて常に考えるようになりました。
《中国武術の修行と仏教哲学への傾倒》
91年に熊本の地で、この人こそ長年捜し求めていた武術の師だと思える真伝の古儀中国武術の達人に出会い入門。当時お子様が生まれたばかりで、弟子を取る気が老師になかったので、入門の審査は厳しいものでしたが、入門を許され本格的な武術修行を始める。
陳家太極拳老架式を中心に習いましたが、参考程度に八卦掌・形意拳・八極拳・詠春拳などを部分的に習いました。
「仏教やキリスト教も哲学として学べば武術に役立つ。」と老師に勧められ独学で学びましたが、キリスト教は読んでみたところ性に合わず、仏教を学ぶことに。
釈迦の純粋な教えに近い南伝仏教を勧めてもらいました。
偶然にもこの頃より、できるだけ純粋な釈迦の教えを求めるようになり、釈迦派である苫米地博士と同じ道を辿りだしていました。
《頸椎骨折による不調により外功から内功・気の世界へ》
88年頃大阪で勤めていたカイロプラクティックの治療院で、先輩が治療の練習中に首にスラストをし、頚椎2番軸椎の歯突起の不全骨折をしてしまう。
その直後から左の首から顔がシビレ、下を向くだけでめまいや吐気が起こるという絶不調に。 鍼灸学校の在校時だったので、ノートを取るのも辛い状態でした。 構造医学研究所に入職後もカルテを書くなど下を向くとめまいや吐き気が続きました。 吉田博士に治療してもらい大幅に改善するもすぐには治らず3年以上患う。
その怪我の後遺症により、その後徐々に全身の不調が起こり(吉田博士の診断によると強直性硬化症に成りかけていた)、通常の武術修行が難しくなり、特別に老師に身体への負担が少なく養生効果もある気功修行をメインにした練習メニューに変えていただき、修行を継続。
意識気功・周天気功・養生気功(強健気功)・武術気功・瞑想などを習う。
《秘儀参入・拝師式を受け拝師門徒(掌門人に》 入門当初からの実力の高さ・人間性を認められ、10人組手、30人組手、50人組手を免除される。 入門して1年4ヶ月程で正式な弟子となるための儀式・拝師式を受け拝師門徒(掌門人)となる。 (*掌門人とは入室弟子を指し、内弟子のことである) これが本格的な秘儀参入の始まりでした。 教練・支会長・副長などを歴任、現在内弟子の中でトップの大師兄に。
熊本在住時は昼は構造医学研究所、夜は武術修行の二重生活。 夜19時頃から0時頃まで武術の稽古をし、終われば老師宅に伺い2時や3時に帰るという過酷な生活でしたが、若かったこととWANT TOだからできたのだと、今更ながらWANT TOの凄さを実感しています。
身体能力には天性の才能があったが、首の骨折や肋骨骨折、右手の骨折、両肩関節の脱臼、交通事故など怪我が重なり、その怪我をきっかけに治療の世界にさらに深い興味を持つ。
自身の身体を治していく過程で、気功やヒーリング、養生法、「治るとは」「よくなるとは」何なのかを深く探求するように。
武術や気功と治療で上達することを探求していたおかげで本質力が向上し、その本質力の上げ方や正体に少しづつ気付く...
師である吉田博士からの「ものごとの本質を捕らえろ」との教えも本質力の上達とともにできるように。
気が付けば構造医学では他の兄弟弟子とは比較にならないレベルに上達していました。
《遠き九州の地での修行〜人としての成長を探求・そして》 吉田博士から「エリートの中のエリートになる男」などと評されるも、懇親会などで積極的に人に話しかけていかない、自分からはお酒を注ぎに行かないなど、人に媚びれない性格や誰が決めたかも解らない納得できないルールや慣習には従わないという天性の自由奔放さや、長髪や穴の開いたジーンズで出社するなど当時の熊本という土地柄や元教師という儒教的な洗脳教育を受けてきた師には受け入れ難かったこともあり、「天才的だけど人間がバカ」とも評され、「おまえは治療の方は勝手にうまくなるから、若いうちに先生、先生と言われるのは決していいことではないので、娑婆で仕事をして理不尽な目に遭って来い。」「世の中の人がどれだけ理不尽な目に遭っているか体験して来い。」と言われ5年契約のところ3年弱で院を出ての課外授業をするはめに。 「できるだけ3Kといわれるような人が嫌がる仕事をして来るように。」と院外で一般業をすることを命じられる。九州で掃除の仕事や身障者が働いている自転車組み立て工場などで数年働く。 阪神大震災の直後、神戸にボランティアに行くことを命じられ、ボランティアのため大阪に帰る。
数ヵ月後熊本に帰り師に報告したところ、「そろそろ大阪で開業して欲しい。」と言われるも開業資金がないことを告げると「ベットや機材など、こちらで用意するから。」と依頼「本物の構造医学、創始者吉田勧持の想いや考えを伝えて欲しい。」と密命を受け開業。
今思えば丁稚奉公のような今の時代では体験しがたい貴重な体験ができ、師匠には感謝しかありません。
今時息子でもこんな目に遭うことはないでしょうから。
師弟関係は親子関係より濃くなるとは、よく言ったものだと思います。
吉田博士に人間がバカと評されたこともあり、人が成長するとは、どういうことかについて深く考え探求するように。
武術や気功で座禅や瞑想をすることもあり、「悟り」についても漠然とは探求していたが、「人が成長したゴールが悟り」と仮に仮定し本格的に「悟り」の探求を始める。
《さらなる「悟り」探求・様々な師との出会い〜秘儀参入》
幸運にも武術の達人以外にも様々な分野の達人クラスの師匠との出会いがあった。
95年に大阪に帰ってしばらくして気功の達人中の達人である元極学の創始者張志祥先生が来日して大阪で第一部功法の混沌初開法の講義と貫頂を受ける幸運を得る。その後総本山の蓮花山で第一部功法の混沌初開法や第二部功法の鴻蒙済判法の講義を受け、それらの貫頂を数回受ける幸運を得、第一部功法の混沌初開法の伝授員となる。
2006年に広島にてダライ・ラマ法王猊下に金剛界マンダラの灌頂会に参加し、猊下より菩薩戒と三昧耶戒を受け仏弟子・密教弟子になる縁をいただき、同じ灌頂を2011年にもう1度受ける幸運を得る。
更に2014年には夢が叶い胎蔵界マンダラの灌頂、カーラチャクラの灌頂をダライ・ラマ法王猊下から受ける。
2016年5月には猊下より文殊菩薩の許可灌頂を受け、更に11月にチッタマニターラー尊灌頂を受ける。
今年4月密教の最奥義たる無上ヨガタントラの中でも「一切タントラの王」として名高い秘密集会(グヒヤサマージャ)の聖者流(ナーガルジュナ/龍樹)・ジュニャーナパーダ流(ブッダ・ジュニャーナパーダ/仏智足)の二流儀の大灌頂をチャト・リンポチェ猊下より受けることができ、10年来の夢が叶う。
2006年にできた縁より2007年以降元ギュメ寺館長ロサン・ガンワン・リンポチェよりヤマンタカの灌頂やターラ菩薩の灌頂など数回受ける。
2008年にはさらに幸運にもゲルク派副管長のチャンツェ法主リゾン・リンポチェ猊下にチャクラサンヴァラの灌頂を受ける。
(その後2009年にリゾン・リンポチェ猊下はゲルク派の首座(最高位)ガンデン座主(ガンデン・ティパ)に成られました。)
ロサン・ガンワン・リンポチェが亡くなられた後、後任にロサン・デレ・リンポチェにも同じくヤマンタカの灌頂とターラ菩薩の灌頂など数回受ける。
このように武術の達人、気功の達人、チベット密教の高僧、ヨガの大成者など様々な分野の世界最高峰の達人たちから貫頂や灌頂、ディクシャなどイニシエーション、秘儀を受け体験してきました。
治療やヒーリングでも日本や世界の最高峰の名人・達人に学び、施術を受けてきました。
これらの体験と30年以上の武術・気功の修行とあいまって内部表現の書き換えなど非言語系の操作を極めて突出して得意としています。
それはまるで能力を与えるかのように超短期間で人を上達・変容させれるほどに昇華しました。
これらの体験や実践を土台に苫米地博士に直接会いコーチングやヒーリング、仏教を学んでいるのですから、知識だけでなく非言語が得意なのは十分納得できることと思います。